湯の山温泉の歴史

湯の山温泉は、1300年という長い歴史の中で大変な時代も多々ありました。
しかし、そのような時でも乗り越えられてきたのは、湯の山を愛するたくさんの方々がいたからです。
これからも歴史ある湯の山温泉をより多くの皆様に愛してもらえるように一層努力して参ります。

昭和3年頃 湯の山温泉を訪れた観光客 昭和3年頃 湯の山温泉を訪れた観光客
昭和3年頃 湯の山温泉を訪れた観光客

奈良時代
「温泉の発見」

717〜723年、湯の山温泉は、夢のお告げ(薬師如来)によって、淨薫上人が発見したと言われています。
また、負傷した鹿が湯の山温泉で治療していたのを樵夫(木こり)が見たという伝説もあります。

室町時代
「三嶽寺と湯の山温泉」

1568年、織田信長の北伊勢侵攻の兵火により、国見岳直下の三嶽寺が滅亡しました。
中世の三嶽寺の歴史は明らかではありませんが、この寺の栄枯盛衰が、
湯の山温泉の盛衰に深く関わりがあったと言われています。

江戸時代
「温泉の復興」

新しく菰野に土方氏が就封して、城下町づくりが進められました。1686年頃、菰野村から
温泉復興の声があがり、三世雄豊は幕府に復興を願い出て老中の許しを得ました。
それから本格的な湯の山の開発が始まりました。
三世雄豊の許しを得た湯の山に住む壺屋権七が温泉の復興を企画し、湯壺・浴場を
整えることに尽力した結果、翌年の4月に「杉屋・泉屋・藤屋・菊屋・吉文字屋・松屋・山形屋・壺屋」の
湯宿が完成しました。江戸期の郷土誌『勢陽五鈴遺響』によると、当時の伊勢国における温泉は、
菰野の湯の山温泉と一志郡の榊原温泉だけであり、北伊勢地方では唯一の温泉でした。
天明の大飢饉、寛政の改革によって奢侈の禁止、男女混浴の禁制など、幕府や藩の倹約令の強行によって取り締まりが厳しくなると、湯の山へ訪れる湯治客や行楽客も次第に少なくなってきました。
そこで、以前より客足が減り、湯宿も4軒となって商いが成り立たない旨を、庄屋肝煎9人の連名で菰野藩に
提出しています。また、残った4軒の湯宿の主人である菊屋幸助、杉屋喜三郎、
吉文字屋武衛門、橘屋半兵衛の4人も菰野三郷の村役人へ文書を提出しています。

江戸末期の湯の山温泉
江戸末期の湯の山温泉

【この時代の湯の山の名物・お土産】

●かんざらし
このころから菰野町のもち米は広く知れ渡っていた。かんざらしは、白玉粉のようなもので
お菓子の材料に使われるものである。
●湯山香煎
麦や玄米などを煎って挽いた粉。お湯で割って飲むと体に良いとされていた。
●湯山もぐさ
お灸のこと。湯で溶かして塗ると怪我や病気が治ると言われていた。
●湯山抹香
お香のこと。

明治時代
「傷病兵の臨時療養所」

1877年、西南戦争で従軍した傷病兵の臨時療養所を湯の山に設置しました。
療養を終えた傷病兵が湯の山の景勝と温泉の効果を宣伝したためか、
次第に来遊者も増加して活気を帯びてきました。しかし、交通の便は悪く、1880年に
ようやく湯の山―栃谷間の道路の大改修が行われて現在の道路の基礎が出来ました。
1901年頃には、四日市―菰野間に馬車、四日市―新明橋間に人力車、
新明橋―湯の山温泉間に駕篭(かご)が運行されて、湯の山温泉への便も随分改善されました。

明治時代に描かれた湯の山温泉の地図
明治時代に描かれた湯の山温泉の地図

大正時代
「交通アクセスの拡大」

1913年、四日市鉄道株式会社が四日市―湯の山間に軽便鉄道が開通しました。
1916年には香雲橋まで道路の大改修を行い、1921年に四日市―湯の山間にバスが開通しました。
明治時代に比べると、湯の山温泉への交通の便が一層よくなりました。

大正時代の大石橋
大正時代の大石橋

昭和時代
「全国的に有名な温泉へ」

1950年11月、第5回愛知国体登山競技の部が、御在所山を中心に鈴鹿山脈で行われました。
参加選手、視察団併せて400人の受け入れをするのは、当時の8軒の旅館ではとても無理なことでした。
そこで誘致した三重県は、補助金を出して御在所山や朝明渓谷ヒュッテ、一の谷・山の家などを
増築して国体が実施されました。国体のおかげで、御在所山や湯の山温泉は、
全国的に新聞・ラジオで報道されるようになり、以後湯の山温泉を訪れる観光客は全国的となりました。
また、1955年を過ぎる頃には、年間30万人を超える賑わいとなりました。
愛知国体以後、全国的な観光地として注目されるようになった湯の山温泉は、
1959年4月、山頂と温泉を結ぶロープウェイが開通したことで、
爆発的な人気を集め、年間100万人を超える観光客がやってきました。

昭和40年以降の近鉄湯の山温泉駅
昭和40年以降の近鉄湯の山温泉駅
昭和40年頃の公衆浴場
昭和40年頃の公衆浴場
紅葉の御在所ロープウエイ
紅葉の御在所ロープウエイ
昭和50年 杉屋から見た寿亭望城閣
昭和50年 杉屋から見た寿亭望城閣

1962年には、御在所山山上に日本カモシカセンターが開設され、ニホンカモシカを含め世界で
10種類のうち、8種類のカモシカを飼育していました。1965年8月、国の許可を受けて
鎌ヶ岳と釈迦ヶ岳で捕虜したニホンカモシカの間に雌のニホンカモシカの子供が誕生しました。
人工飼育では日本初の快挙であって、画期的な出来事となりました。

鈴鹿山脈に生息するニホンカモシカ
鈴鹿山脈に生息するニホンカモシカ

1968年には鈴鹿国定公園に指定され、1970年には温泉街を東海自然歩道が通過することになりました。
1972年、鈴鹿スカイラインの開通は、観光業者にも期待が大きかったようで、
定期バス路線を三重交通と国鉄バスが1972年11月から運行しました。
1973年には、皇太子同妃殿下が湯の山温泉にご宿泊され、1980年には天皇皇后両陛下がご宿泊されました。

御在所岳山上にあった観覧車
御在所岳山上にあった観覧車
御在所岳山上にあったバンガロー村
御在所岳山上にあったバンガロー村

監修:菰野町図書館 郷土資料コーナー 佐々木廣子